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野栄町の歴史は、鈴木甲子幸先生(野栄町郷土史の会会長)が非常に詳しいそうです。野栄広報巻末の歌のコーナーの常連の方です。僕も野栄町郷土史の会に入りたいです。入れて下さい。最年少会員でしょうか?でも、歩いて史跡を回るのはイヤです。車にしましょう。 ここに書いているものは、僕が、中学時代に野栄町の歴史を調べた際に、覚えてしまったものです。10数年前の記憶を頼りに書いているので、間違いがあるかもしれませんが、大筋ではあっていると思います。 |
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内裏塚 壬申の乱の戦乱を避け、なんとかの皇女(額田王の娘?)が逃げてきて、亡くなったとこ、らしい。 |
円長寺の仁王像 鎌倉時代に大地震があった際、建長寺の仁王像が流され、野手浜に流れ着いた。人々がその頭の向いていた方向(「そっちさ、いぎでーだっぺや」と考えた)に仁王像を運んでいると、円長寺の所で仁王像が急に重くなり、運べなくなった。そこで、人々は、仁王像が「こごにいたいんだべや」と、勝手な判断を下し、そこに立てた、らしい。ホンマか?それよりなにより、弘法大師が円長寺を開いたというのは、本当でしょうか? |
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初日の出 野手浜は激コミです。午前3時を回ると、普段ほとんど車が走っていないのに、飛ばしている都会からの車(基本的に野田ナン)が多いです。が、車の中から初日の出をみる方法がないわけではありません。 |
鈴木康文先生の詩 「のさか望洋荘」隣
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岡集落・浜集落
九十九里浜沿いの集落は岡集落・浜集落の2種類に大別できる。 ここで、一つ疑問が生じてしまいました。岡集落と浜集落の中間にある集落の存在です。野栄町では中間にある集落名に、「目名」という名が付くことが多いのです。誰か教えて下さい。 江戸時代には、漁業技術の進歩により、漁獲高が大幅に上昇した。また、前期には上方で、中・後期には江戸で、農業用の干鰯(ほしか)や食用塩(イオン交換樹脂膜法ぢゃないよ。塩田だよ。)の需要が増し、九十九里浜沿岸の集落はリッチになった。〜新田という地名が存在しますね、あれも江戸期にできたものです。江戸期には、各種技術の進歩により生産性向上・人口増加があり、新田開発が必要になったのです。ところで〜開墾ってのはいつできたんでしょうか?墾田永年私財法のころ?そんなわけないか。 ref.野手の「釜前」の釜は塩田にあった海水を煮立てるための釜からきたもの、らしい。のちに、塩の供給は瀬戸内海がメインとなった。 |
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