名所・旧跡を巡る

   

野栄町の歴史は、鈴木甲子幸先生(野栄町郷土史の会会長)が非常に詳しいそうです。野栄広報巻末の歌のコーナーの常連の方です。僕も野栄町郷土史の会に入りたいです。入れて下さい。最年少会員でしょうか?でも、歩いて史跡を回るのはイヤです。車にしましょう。
ここに書いているものは、僕が、中学時代に野栄町の歴史を調べた際に、覚えてしまったものです。10数年前の記憶を頼りに書いているので、間違いがあるかもしれませんが、大筋ではあっていると思います。

   

内裏塚

壬申の乱の戦乱を避け、なんとかの皇女(額田王の娘?)が逃げてきて、亡くなったとこ、らしい。
僕の記憶のみを頼りに書いているので、人名には間違いがあるかもしれません。が、しかし!この伝説は九十九里沿岸に多数ある。曽我兄弟の墓みたいにどこにでもある話ではないだろうか。

円長寺の仁王像

鎌倉時代に大地震があった際、建長寺の仁王像が流され、野手浜に流れ着いた。人々がその頭の向いていた方向(「そっちさ、いぎでーだっぺや」と考えた)に仁王像を運んでいると、円長寺の所で仁王像が急に重くなり、運べなくなった。そこで、人々は、仁王像が「こごにいたいんだべや」と、勝手な判断を下し、そこに立てた、らしい。ホンマか?それよりなにより、弘法大師が円長寺を開いたというのは、本当でしょうか?

   

初日の出

   野手浜は激コミです。午前3時を回ると、普段ほとんど車が走っていないのに、飛ばしている都会からの車(基本的に野田ナン)が多いです。が、車の中から初日の出をみる方法がないわけではありません。
毎年、スタックしている車がいます。気を付けてください。帰りは望洋荘周辺が激コミで、当然ながら126号線も動きません。野栄から、八日市場まで信じられないほど時間がかかります。296号線に出るのは、至難の業です。内裏塚方面に曲がり、30号を逆走し、吉崎浜から平木を経由して、126号線をわたりましょう。その後は旧道や広域農道または、飯高経由で296に回ればサクっと東関道に出られることでしょう。当然ながら、126号線沿いのファミレスは混んでます。かといって、296沿いにはあまりないです。
この辺りには、VICSがなさそうなので、カーナビの指示を無視した方が早いかもしれないです。

鈴木康文先生の詩

「のさか望洋荘」隣
一列の青波しろく秀たちつゝそりかしくまも走り続くる


堀川西開墾
あかあかと裏田の畦の榛(あお)の間に夕べ上総の山焼くる見ゆ

   

岡集落・浜集落

   九十九里浜沿いの集落は岡集落・浜集落の2種類に大別できる。
   当初、岡集落(ex.野手、今泉、新堀)のみが存在したが、海退が進み、漁師達は漁具を置く納屋を海岸近くに作るようになった。この「納屋」に人々が住み着くようになり、新しい集落、「納屋集落」=「浜集落」(ex.野手浜、今泉浜、新堀浜)ができた。これは、江戸時代の頃であったと考えられる。川辺・堀川・栢田の位置関係は、野田地区の人には複雑でよく分かりません。

   ここで、一つ疑問が生じてしまいました。岡集落と浜集落の中間にある集落の存在です。野栄町では中間にある集落名に、「目名」という名が付くことが多いのです。誰か教えて下さい。

   江戸時代には、漁業技術の進歩により、漁獲高が大幅に上昇した。また、前期には上方で、中・後期には江戸で、農業用の干鰯(ほしか)や食用塩(イオン交換樹脂膜法ぢゃないよ。塩田だよ。)の需要が増し、九十九里浜沿岸の集落はリッチになった。〜新田という地名が存在しますね、あれも江戸期にできたものです。江戸期には、各種技術の進歩により生産性向上・人口増加があり、新田開発が必要になったのです。ところで〜開墾ってのはいつできたんでしょうか?墾田永年私財法のころ?そんなわけないか。

ref.野手の「釜前」の釜は塩田にあった海水を煮立てるための釜からきたもの、らしい。のちに、塩の供給は瀬戸内海がメインとなった。

 
 
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